儚さは白

白は始まりの色。

『ディスコ探偵水曜日』が教えてくれた日本人の素晴らしさ

 

ページをめくる度、どっと疲れる本と出逢いました。半年ほど前の出来事です。その本は文庫本にして上・中・下、3冊からなる大作で、舞城王太郎さんによって書かれました。僕は『ディスコ探偵水曜日』と題されたその本を読破するまでに1ヶ月以上を要してしまいましたが、読了から早くも数日が経ち、精神は回復傾向にあります。

 

ディスコ探偵水曜日〈下〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈下〉 (新潮文庫)

 

 

 文体が異常

 『ディスコ探偵水曜日』はディスコ水曜日(名前)の視点で語られる一人称小説です。ディスコ水曜日はファンキーなので、ストーリーに着いていくにはまず彼のテンションに着いていかなければなりません。

 

今とここで表す現在地点がどこでもない場所になる英語の国で生まれた俺はディスコ水曜日。Disとcoが並んだファーストネームもどうかと思うがウェンズデイのyが三つ重なるせい友達がみんなカウボーイの「イィィィィハ!」みたいに語尾を甲高く「ウェンズでE!」といなないてぶふーふ笑うもんだから俺は…いろいろあって、風が吹いたら桶屋が儲かる的に迷子探し専門の探偵になる。俺のキャディラックのボディには俺の名前と事務所の住所と電話番号の上に『ベイビー、あんたが探してんのは結局あんた自信なのよ』って書いてある。

 

これは本作の序文なのですが、ここ最近「強磁性の原因となるのは~」とか「格子欠陥の多い結晶の散乱頻度は~」とか、いわゆる専門書を読む機会が多かったのでいきなり度肝を抜かれました。ディスコ水曜日のテンションに高低はあるにせよ、上巻(369ページ)、中巻(485ページ)、下巻(603ページ)通してこの調子です。加えて、急にフォントが太字になったり、サイズが変わったりします。正直、最初はわけがわかりません。

 

しかし、慣れてしまえばこっちのもの。序盤の窮屈さが嘘だったのかのようにスラスラと読めるはずです。

 

名探偵たちの推理合戦

基本的に読者は必死になって話を追わなければなりません。それを許してくれないのが名探偵たちです。ひとり名探偵が推理を披露し、事件が解決したと思ったら大間違い。別の名探偵がまた推理を始めます。「なるほど、そういうことだったのか!」と納得しても、またまた別の名探偵が推理をします。何が正しいのか、果たして話が終わるのか、読者は不安になります。

 

文体に慣れ、スラスラ読めるようになるのはスタートラインなのです。『ディスコ探偵水曜日』を読み切るには、ひとつの推理で満足しない気持ちが大切になります。

 

ジャンルがわからない

事件が発生し、それを解決する。これをミステリーだと思ってはいけません。本作はただのミステリーに非ず。ときに哲学書だったり、教養書だったりします。大まかにはSFミステリです。話は宇宙スケールに広がり、これまた収集がつくのかと不安になります。この本の特徴はとにかく「読者が不安になる」、この一点にあるのです。

 

ディスコと一緒に考えよう

ディスコ水曜日は探偵であっても、名探偵ではありません。名探偵の推理を聞いては混乱するという、まるで僕たち読者を投影したかのような主人公です。複雑に絡み合うミステリーとSF成分の中で、ディスコは常に考えます。唯一読者の考えが及ぶディスコと一緒に僕たちも考えるわけです。

 

人が人に与える影響力とは、どれくらいの強度を持つんだろう?

どれくらいの確かさを持つんだろう?

どれほど長持ちしてどれほど行き渡るか、それは測定が可能なのだろうか?

人間関係の経験を重ねればそれは匙加減のできるものなのだろうか?

 

まるで量子力学的な問いに挑むうちに開ける境地もあるのです。『ディスコ探偵水曜日』はいつのまにか深い話になってゆきます。ますます不安になります。

 

英語の国で生まれた探偵が教える日本人の素晴らしさ

 この本はわけがわかりません。なのに面白い。そこがこの本の魅力であり、強みなのだと僕は思います(単に理解力が乏しいからかもしれません)。これだけ長い話ともなれば、きっと誰しもお気に入りの場面や台詞を見つけられるでしょう。

 

最後に僕が胸打たれたディスコの長台詞を引用します。ああ、「すごい」作品でした。

 

お前の人間理解なんてそんなものだよ。日本人のことも判んないだろ?本当は。何でもサムライハラキリで想像してるだけだもんな。俺にはもうちょっと判るぜ、日本人が梢式を拒否する理由。死にたがりとかじゃない。死ぬのはきっとどこの国の奴とも同じくらい怖いだろうよ。でも持って生まれたものに何も足さず何も引かず、そのままを受け取って生きて死んでくんだよ。 そういうのを美しく感じてんだよ。日本人が桜を好むのは、あの薄いピンク色が綺麗だからってだけじゃないぜ?儚く散ってく様が、与えられた寿命の尊さを思わせて、そこに美を感じてるんだ。日本人は桜の花びらを枝に貼り付けたりしない。品種改良で花盛りを長引かせようとしたりもしない。散る花を眺めて、次の春にまた咲くのを待つだけだ。人間だって与えられた寿命で死ねばいいんだよ。どうせ次の世代がやってくるんだ。そもそもお前、寿命って漢字を書けるのか?寿命の寿はコトブキ、お祝いごとだよ。与えられた命はそのままで祝うべきもの、十分に長いものなんだ。日本に来ていてよかったぜ。お前らの糞みたいな宣伝に騙されずに済んだからな。