今年一年を振りかえ……らない
とてもではないが、今年一年を総括するという気にはなれない。
楽しかったこと。
嬉しかったこと。
悲しかったこと。
辛かったこと。
もちろん、たくさんあった。
ただ、今はそれらの気持ちに触れず、ぼんやりと過ごしていたい。
ブログを書く、文章を書くということは僕にとって、精神的に安定な時間をつくるということに他ならない。
どれだけ落ち込んだときでも、腹にある気持ちを表に出してあげ、それを自ら確認することで不思議と落ち着くものだった。
いま、こころがざわついている。
11月の僕と12月の僕はおそらく違う。
大きく違う。
恙なく過ごすという今年の目標は結局叶わなかった。
酷いことを言ったかもしれない
京都で僕は結局、文通相手と会うことはなかった。彼女は、待ち合わせ場所に現れなかった。
そして僕は、そのあとすぐ愛知へ帰らなければいけない急用ができた。
母親が入院することになった。
今でもそのショックから立ち直れていないし、かなり精神的に厳しい。
ただ、母親のことを詳しくブログに書くことはないだろう。
文通相手のTちゃんは大人しい子だ。
なおかつ、変化が激しい。
Aと言ったことが数日後にはBに変わっていて、よくよく話してAに戻ったと思えば、数日後に今度はCになっているという次第だ。
別にそれが悪いわけじゃない。他人の意見を受け入れやすい素直さがあったり、その時々の気持ちに正直なだけなのかもしれない。
ただ、色々なものがぶれやすいだけで。
僕が送ったメールは、彼女との縁を切ることになるかもしれない。
これまで伝えるのを躊躇ってた事柄をぶつけてしまった。
それでも彼女がそのメールの真意を理解してくれるのでは、と信じているのが僕の悪いところだと思う。
どうなるかな。
僕はポジティブじゃない
なにが正しくて、なにが間違っているんだろう。
いつも失敗している気がする。
上手くいくことなんて、滅多にない。
失敗や後悔の思い出ばかりが増えていく。
それを肯定的に捉えれば、懸命に生きた証拠とでも呼べるのかもしれない。
肯定的?
僕はそこまでポジティブな人間ではないじゃないか。
いいように結果をすり替え、過程そのものを捻じ曲げてしまうなんて言語道断だ。
根がネガティブなんだよ。
だから、こんなにもつらいんだ。
上手くいかないって決めつけてしまう自分が、何よりもつらいんだ。
Twitterからの離脱
Twitterをまったく見なくなった(こんなことは一年ぶりだ)
もう十日は見ていない(一年ぶりだ!)
正確には、見たいけど見ていないという表現が正しい。おそらく、閲覧した瞬間に精神が壊れると思う。
最近は、プライベートでブログにも書けないレベルの哀しいことがあった。この週末は、親族も集まって会議が開かれた。とにかく胃が痛い問題だ。
もう、ギリギリのところで生きている。かなりの頻度で嘔吐するし、食欲も減衰している。
それでも生きなくちゃいけない。生きて、生きて、生きなくちゃいけない。
明日が終われば冬休みだから、時間をかけてリフレッシュしよう。冬を越さないことにはどうしようもない。
待ち人来ず
やりたくなくてもやらなきゃいけないことが多すぎる。
きれいさっぱり片付けて年を越そうと考えたこともあったけれど、それは難しいみたいだ。
中でも、卒論関係の敵は手強い。
ゴールをイメージできないからスタートもあやふやになる。
ただの現実逃避だってことは自分が一番知ってる。
やらなきゃいけないことも分かってる。
しがらみも何もかも、全部捨ててやりたい。
掃除機で吸い付くして、掃除機ごと海にぶん投げたい。
週末に京都へ行くことも少しつらい。
手紙で日時と場所を指定して待ち合わせたのだけれど、多分その人は来ないと思う。
ううん、信じていないわけじゃない。
でも、信じるのはきっとこれで最後。
裏切られることに疲れてしまったんだ。
来ない相手を待つのはつらいものだよ。
今年もあとわずか。
怒ったっていい
怒鳴り散らしたり、乱れたりしたことは遥か昔の記憶だ。
ないわけがない。
きっと怒るということはそういうことではないんだ。理不尽な物言いにムッとしたり、蔑まれたり見下されたときに不満は出るよ。怒ってるんだ、心では。
でも僕は、その怒りを冷静に言葉にしようとする。だから感情をぶつけるような怒り方にはならないんだと思う。
雪の思い出
目覚めると外は銀世界だった。
今年初の積雪。それも、大雪だ。
カメラをカバンに入れ、いつもよりも早めに家を出た。
何もかもが真っ白。
吐く息も、木々も、空も、何もかもが白色。
北国の住人じゃないから、雪はいつだって新鮮だ。
ある日突然世界が変わって、あっという間に元へ戻って行く。その光景は、僕にとって「冬の桜」とも言える。
小学生のとき、記録的な大雪が降った。確かあのときも12月の暮れだったと思う。
授業は中止となり、全校生徒で雪遊び。ゆとり教育の賜物だ。
僕らはかまくらを作った。
日陰から残雪を調達し、来る日も来る日も溶けゆくその作品を守り続けた。
それでも終わりはやってくる。校庭中を染めた白色は、校内の畑の一角を残すのみとなり、それは最早かまくらとは呼べなくなっていた。
雪が降る度、いや、雪が溶ける度に僕は当時の記憶を思い返す。終わると知っているものに執着して、必死に現実と対峙していたあのときを。
「冬の桜」はいつ咲くかわからない。来年また見られるとも限らない。
昨日と今日も、今日と明日も違う。だから面白いのかな、なんて思ったりして。